囓る⑦

目覚める夢を見たフランスの哲学者、ルネ・デカルト(1596-1650) は、現実世界もまた夢であるのではと考えた。「偽の目覚め」false awakenings である。

優れた数学者だった彼は、ハエが天井を歩くのを見て、ハエはあらゆる一点の場所でどのように自分の立ち位置を知るのだろうと疑問に思い、「直交座標系」を発明した。科学にも魅了され、天文学者であり、生物学者でもあった。彼を哲学者たらしめた本 、Meditation / Discourse on Method「省察」と「方法序説」で知識の限界について追い求めた。哲学者の御多分に洩れず、調べることなくして物事は信じなかった。しかも聞きにくい質問も厭わず問うた。確実になるまでは解き続けるというのが彼のスタンス、方法的懐疑 the Method of Cartesian Doubt である。少しでも真実ではない可能性があれば、その結果は受け入れない。

袋の中をよいリンゴだけで満たしたい時、最良の方法は、すべてのリンゴを袋から出し、カビそうなものをすべて取り除き元に戻す、というのが方法的懐疑。デカルトは信じているあらゆるものに疑問を呈した。世界は本当に彼に見えている通りなのか?彼は夢見ているだけではないのか?現実への足場がありさえすれば納得がいく。しかし、疑いの渦に呑み込まれ、すべてが確実ではなくなる危険性も含む。懐疑主義のそれとは違い、どんな形の強力な疑いからも免疫を持つ信心があると示したかった。まず五感を通しての証拠について考える。感覚は信じられるか?否。時にからみとられる。見ているものは信用おけるか?視覚を信用できるか?

真っ直ぐな枝も水の中では曲がる。遠くにある四角い建物は、丸く見えるかもしれない。人は時に見間違うだろう。過去に騙されたことを信ずるのは得策ではない。それ故彼は感覚を信頼できる源とはみなさなかった。

今起きてこれを読んでいるという確信も、なぜそうと言い切れるのか?あまりに現実的で夢にしては詳細すぎるから?けれど詳細な夢を見る人は数多くいる。たとえ自分を抓ってみたとしても、抓った夢を見ているだけかもしれない。だから、デカルトの方法的懐疑によれば、この本を今目覚めて読んでいるかは必ずしも定かとは限らないのだ。

夢の中で計算してみる。これは彼が使用した思考実験。もし信じがたいほど力があり、賢いが非道な悪魔がいたとして、足し算をするたびに違う答えを信じ込ませていたとしたら、何も知らず計算を続けていたら、それが日常となってしまう。もしもフランス南部のビーチで寝転がっているのに、家でラップトップのキーを叩いているという幻想を見ていたら?もしも自分は単に悪魔の実験室の棚の液体の中の脳だったら?悪魔がワイヤーを脳に組み入れ、電気信号を送って、全く違うことをやっているように思い込ませているのかもしれない。理にかなった言葉をタイプしているようで、実は同じ文字を打ち続けているのかもしれない。知る術はなし。どんなにバカげた考えだろうと。

この悪魔の思考実験は疑いを極限まで押し上げる方法だ。ひとつでも確実なことがあれば、悪魔も我々を騙すことはできない。

たとえ悪魔が存在したとして騙していたとしても、悪魔が騙している何かが存在する。考えを持つ限り、デカルト自身も存在するはず。もし存在していなければ、悪魔も彼が存在していると彼に思わせることはできない。存在しないものは思考を持てないからだ。「我思う。故に我あり」 ‘I think, therefore I am’ が、デカルトの結論である。

見たり触れたりできる身体があるか、は疑う余地があるが、思考しているのだから、存在しているか、を疑う余地はない。自己否定となってしまうからだ。

自分の存在の確実性はデカルトにとって重要だった。懐疑主義が間違っていることを示すためだ。実体二次元論 Cartesian Dualism の始まりでもある。心は身体と離れていて交流を行うというものである。20世紀の哲学者 Gilbert Ryle がこの見解を機械の中にいる幽霊の神話として模している。身体は機械で魂はそこに宿る幽霊。デカルトは心と身体は脳の松果体で交流するので、互いに影響し合うと信じた。しかし彼の二次元論は、魂や心が身体に与える変化についての説明がつかなかった。

身体より心の存在の方がデカルトにとってより確実なものだった。身体がないことは想像できるが、心がないことは想像がつかなかった。この魂と肉体は別物という考え、そして魂は血や肉や骨から成る肉体ではないという考えは宗教を信じる人々に共通する。肉体が死んでも魂は生き続けると信じた。

しかし、我思う故に我ありの考えは懐疑主義を覆すには充分ではなかった。デカルトはよい神は存在すると論じた。聖アンセルムの存在論 Ontological Argument を引き合いに出し、神という概念が神の存在を証明しているとし、三角形の内角の和が180度でなければ三角形とならないように、神は善なるもので存在しなければ、完璧ではないと自身を納得させた。神は我々の心の中に神が存在するという事実を植え込んだのだという商標の議論 the Trademark Argument では、神がいなければ、神という概念は生まれないと考える。神が存在すると確信すれば、デカルトの理論構成はもっと容易になる。善なる神は基本的な事象については人類を欺かないだろう。それ故に、世界は多かれ少なかれ我々が経験している通りなのだと結論づけた。我々が明確な見解を持てば、時に間違うことはあっても、信じるに足る。

しかし、哲学者の中には彼の考えは希望的観測 wishful thinking に過ぎず、邪悪な悪魔が間違った計算と同じように神の存在をも信じ込ませることさえ容易いかもしれないと反論する者も出た。善良なる神の存在が確実でない限り、デカルトは自分は思う物であるという知識より先に行くことはできなかったろう。懐疑主義からの出口を見出したと信じたが、批評家たちはまだ懐疑的だった。

世にも奇妙な物語的発想や、カッコーの巣の上で、みたいな精神錯乱させる病院話なんか皆デカルトから始まったのかなぁ。

それにしても不安神経症なんじゃないかと思うくらい細かい。

ドラちゃんの話が植物状態のび太くんが見てる長い夢っていうくらい切ない。