囓る④

古代ギリシャの哲学に影響を受けた初期のクリスチャン、アウグスティヌスは情熱の人で、目にした世界の悪に対して深い関心を寄せ、神や神の人類への計画を理解しようと切望した。神は自分に何をしてもらいたいのか。どう生きればよいのか、何を信じればよいのか、問い続けた。地獄の苦しみを信じている者にとっては間違った行いは一大事だが、ひとつどうしても解せないのが、神はなぜ悪を認めるのかということ。 

5世紀〜15世紀まで、哲学は宗教と深く結びついていた。北アフリカアルジェリア(当時はローマ帝国だった)で生まれ、母はクリスチャンだったが、父は地元に根付いた宗教を信仰していた。ヤンチャな若い頃を経て愛人との間に子供を設けた後、30代でクリスチャンに改宗、Hippoのビショップとなった。晩年には Confessions や The City of God など、プラトンの知恵にクリスチャン的捻りを入れて何百冊もの書を綴る。

神は万能だが、世の中にはそれでも苦しみが存在する。天災や病のみならず、殺人や拷問など人間の非道徳的行いもまた然りだ。エピキュラスも指摘したように、何故神は悪に対してすら寛容なのか?全能なら悪を排除することが可能なはずだし、排除できなければ、善なる万能とは言えないのではないか?

アウグスティヌスはその答えを求めた。

ナイフを突きつけている殺人鬼の脳をいじったり、あるいはナイフの刃をソフトなゴム製品に変えてしまえばよい、神は絶対で崇高なのだから全ての悪事を止められるはず。なのに刃はゴムには変わらず、稲妻もなく、雷も落ちず、ナイフが殺人鬼の手から落ちることも、殺人鬼が考え直すこともないのである。全ての創造主というならば、神は悪をも創り上げたのか。

若い頃はマニ教信者だった。ペルシア、現在のイランで生じた宗教で、闇の力サタンと光の力ゴッドが対等な力を持ち牽制し合うという考え方。魂に善が宿り、身体に悪が宿るとする。弱さや願望や迷いは身体に宿る。個々人の内にある悪へと導く闇の力が強大なので、光の力も太刀打ちできないのだ。

後に彼はマニ教の考え方を否定する。善と悪の綱引きが終わらないという考え、なぜ神が闘いに勝利しないのか、納得がいかなかった。キリスト教では、悪の存在も肯定するが、神ほどの力はないとする。ではなぜ絶大なる神の力が及ばないことがあるのか?

アウグスティヌスは考えを尽くした。答えは Free Will Defense 人間には自由意志、選択権があるというもの。神義論、弁神論。どのように善なる神が苦しみを許すのかを弁明したものだ。アウグスティヌスは、自由意志はよいもの、人は十戒に従い、隣人を愛し、神の教えを守れば善を選び取れると考えた。しかし同時にまた迷い、嘘をつき、盗み、人を傷つけたり殺してしまったり、悪の道を選んでしまうこともある。感情が理屈を打ち負かした時だ。物や金への執着が生まれる。放蕩に耽る。プラトンと同様アウグスティヌスはそうした欲を制御すべきと考えた。

もし神が善しか行わぬよう我々人間を創造したのなら、害を与えるはずはないが、そうなると我々は自由ではなくなり、何をすべきかを決定する理性を使えなくなる。だから選択肢を与えたのだ。さもなくば我々は神の操り人形と化してしまう。道徳に反するのは選択の結果なのだ。アウグスティヌスは聖書の創世記にあるように、罪の始まりはアダムとイブの選択の結果とも考えている。すべてはエデンの園で起こった間違いに起因している。知の木になるリンゴを齧ってしまい、神を裏切った二人は、世の中に罪をもたらした。二人のみならず、全人類が背負わなくてはならない原罪、代償だ。繁殖によってこの罪は受け継がれていく。

おそらく現代を生きる読者たちには他人が起こした行動で責め立てられ罰されるのは受け入れがたいだろう。不公平だ。しかし、悪とは我々の自由意志の結果であり、神のせいではないという考えは、多くの信者たちを納得させた、神は何でも知っていて、万能で、善であるという考えも。

うーむ。唯一神というより、万物に神が宿っているという考えが根本にあるので、どうもオーソリティ的な思想は苦手なのだが、理屈は通ってる感じはする。